9.10.2011

忘れること、あるいは都市の消滅と資本主義の文化について スーザンソンタグ InterCommunication No.14 1995

忘れること、あるいは都市の消滅と資本主義の文化について スーザンソンタグ(インタヴュアー 木幡和枝)
InterCommunication No.14 1995. Autumn
特集 映像メディアのアルケオロジー

雑誌から切り出したページがでてきて、その彼女の発言は、日本に住むわれわれから見て必ずしも真で無い部分もあるのだが、考えるヒントとしては興味深い点がいくつかあったので要約してメモを残しておく。

読みながら同時タイプしてまとめているので、文意がズレる箇所もでていると思う。興味のある方は本に収録されているのでそちらを参照ください。

Amzon.co.jp : オペラシティの彼方に―エッジを測量する17の対話
NTT出版 : オペラシティの彼方に エッジを測量する17の対話 磯崎新 編

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事故のいきさつ 磯崎新

関西大震災、オウム地下鉄サリン、タレント知事選と、政治的なトピックスが続出。事件の背後に、同じくポリティカルな問題領域が潜んでおり、それを建築や都市の問題として避けるわけにはいかないと考えていくつかの企画に関わってきた。そのひとつが「水俣メモリアル」の国際デザインコンペティションの審査。同時期に「女性建築家フォーラム」が岐阜で開かれた。基調講演にスーザンソンタグ氏が来日。

「水俣メモリアル」市、および関係者から記念碑もしくはオブジェクトの公募についての相談があり、メモリアルならば、可視的ないっさいのモニュメントが不可能と思われている今日においても成立可能かもしれないと私がサジェストしたことから組まれたタイトル。

(その後、磯崎氏が感冒ウィルスにかかって、スーザンソンタグ氏との対話がキャンセル。インタビュアーをたてて、スーザン・ソンタグの日本論が記録されることとなった。)

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ソンタグ - 女性建築家だからといって特別に負わされる課題があるとは思いませんし、基本的には男性の建築家と同じ仕事の仕方をするというのが私の観点。もうひとつの論点 - 伝統的に女性が家のなかの仕事についてきたということから、女性の方が感覚的に優れている領域があるという見方。そういう主張はむしろ女性建築家の活躍分野を特殊化し、狭めてしまう。コンペという形式は建築界特有のもの。ブラインド・コンペという応募者が明かされないで審査する制度がもっと多く活用されれば、女性に対するあからさまな偏見が入り込む余地は減少します。

今回の女性建築家フォーラムへ招待され、日程上、来られないかもしれないかもしれないということで、代わりの人を推薦した。アメリカではとても有名な人で、彼女を有名にしたのは建築ではなく、モニュメントです。またイェールの学生だった21歳のときに、ベトナムで戦死した兵士の慰霊碑のためのブラインド・コンペで一位になったのです。第一線で活躍する有名な建築家も参加しましたが、蓋をあけてみたら、勝ったのは無名の、まだ大学院生ですらない21歳の学生、女性、しかも中国系ときている。

ベトナム戦争戦没者慰霊碑 - Wikipedia

結果的に私がこられることになり基調講演したわけですが、日本に長く住んでいる外国人から個人的な見解として「彼女は若すぎる、基調講演にはもう少し年輩でないと」とその人は日本での経験からそういう推察をしたわけです。

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100年以上もの長い間、「モダン」は「アメリカ」を意味していたわけですが、20世紀末の視点からすると複数のモデルがあることは明らか。ここ30年来、その新しいモデルが日本になってきたと思うのです。「日本流のモダン」「日本流の過去との訣別の仕方」「日本流の過去の破壊法」というような見方。日本モデルはアメリカ・モデルといくつかの点がちがっていました。

-現代の東京がそんな飛躍をしているのは、過去と断絶したからだということでしょうか?

ソンタグ - よそよりもラディカルに過去を断ち切ったから...でもその前にもう一点。
日本が他の国と違うのはなぜか。日本には他の国とはまったく異なる都市の観念があるのではないでしょうか。まず人口を限定していない。何人でも受け入れるつもりがある。「モダン」の典型がアメリカで、「ポストモダン」の典型が日本だとすると、「モダン」のモデルは従来型の都市の延長線上にあります。中心から放射状に広がっていくという考え方。歴史的に、中世以来のヨーロッパの都市のあり方。

日本の都市には中心という観念がありません。中心ができかかっても、都市の拡張とともにまた新しい中心が出現する。この脱中心モデルは新しいものです。もう一つ外国人の目に明らかなのは、単一の中心を決めてものを作らないばかりか、建物の使い方そのものに日本、東京に特有のものがあるということです。

西洋では建物の使い方に一定の方式があります。道路に面した地上階と、その上の階にすべての重要な活動と重要な組織が位置している。レストラン、劇場など。ところが日本では、建物の内部空間にも中心という観念がない。あるいは西洋的な意味でのヒエラルキーがない。ビル全体がひとつの機能に集中していて、どの階でも同じ活動が重複して展開している。たとえば、繁華街のバーや酒場だけが入居しているビルです。

-日本には過去は記憶のなかにしっかりととどめられているという過信があって、物にそんなにこだわらないのかもしれませんが、そのうち記憶すら忘れ去ってしまう恐れを感じませんか

ソンタグ - 忘れることは日本において重要な命題となっているとも思えます。過去との断絶には愕然とさせられます。一つの例をあげると、文学です。明治以来、戦後期にいたる日本の文学は重要な文化を形成してきました。ところが今現在、若い人々がどれだけ文学を読んでいるか、たぶんよその国に比べてきわめて少ないのではないでしょうか。今朝たまたまみた「Tokyo Style」という写真集で、そこには電気機器、服、膨大な数のCDやビデオテープ。本はまったく見当たりません。音楽、ビデオといったものは新しいアートというべきかもしれません。脱歴史的ともいえる。過去は自分には重要ではない、面倒なだけだ、と言っているように見えます。

文学書は一人ひとりが買うもので、それは自分のなかに対象を取り込むことです。一方テレビやビデオというものは、一過性の刺激、興奮のためにあるとは言えないでしょうか。これは消費を奨励する大量生産社会に密着した文化であり、だれもが同じものを消費することを喜ぶ社会です。古い文化の消費形態とは異なり、人々は集団行動にますます取り込まれやすくなるのです。

- ところで、映画100年にちなみ、最後に映画についてお話いただけますか?

ソンタグ - 映画100年の歴史のなかでも、日本映画は偉大な足跡を残しました。ところが私の知る限り、それが大きく崩れさろうとしています。かつてのような創造性と質はみられない。会う人ごとになんでそうなったのか話すのですが、多くの人はかつてのような監督がいないといい、もっとも大きな理由として経済的理由をあげる。でもそれだけではないと思います。大胆な仮説を言うと、経済的に成立しないといのは結果であって、原因ではない。あるレヴェルの真剣さと内面性をもったアートは高度資本主義のもとでは崩壊していきます。経済的圧力は結果であって、真の理由は人々がもはやその種の経験を理解しなくなる、持ちたいと思わなくなる、ということなのです。その種の体験は大袈裟すぎる、押し付けがましい、難しすぎると感じてしまう。映画が要求してくるもの、そのシリアスさやその暗示的な社会批判 - 溝口、小津、黒澤、成瀬、大島、今村らの優れた日本映画の多くにはそれがあった - はいらない、ということです。映画作りに必要な資金が調達できないといった単純な理由ではない。

ついこの間、東京でも、ロシアのソクーロフという40代後半の監督の映画を上映していたと聞きました。彼はタルコフスキーのアシスタントだった人で、作風は違いますが、その伝統をふまえています。とても哲学的で深く、すばらしい物語映画を作ります。新たに資本主義を取り入れたロシア、そこでもまた、ソクーロフのような映画は受け入れない。人々が彼の映画のようなものを欲していないからです。もっと別のものをみたいと思っている。現在の内的生活の重荷から解放してくれるようなもの、消費を加速化し、過去から遠く離れさせてくれるようなものを欲しているのです。

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さまざまなアートの中でどちらにころんでも消滅することないアート、それが建築です。一面アートであり、同時に倫理的な活動であり、芸術の文脈を離れても実践することができます。別のジャンルのアートとなると、ほとんどのジャンルがそうでしょうが、芸術という意識ぬきにしては優れたものは生まれない。芸術としての建築という意識を恣意的に放棄して、技術、社会、健康、都市、環境という観点からのみ建築を実践してみる。それでも建築から芸術としての側面をぬぐい去ることはできないのではないでしょうか。建築はつねに人目にさらされているわけですから、建築家の将来には、今映画が瀕しているような危機は訪れないのかもしれません。

(InterCommunication No.14 1995. Autumn 特集 映像メディアのアルケオロジー)


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